強迫性障害の愚痴

愚痴を垂れ流しているブログ

強迫性障害 体験談

強迫性障害とは

 

強迫性障害と聞いても、殆どの人にはなじみのない言葉で、「あぁ、あの病気ね」とわかる人は、そう多くいないと思う。

古い表現では強迫神経症と呼んだりする。

また、OCDという呼び方もあり、病者及び、その家族で構成されたOCD自助グループも存在するので覚えておくといいと思う。

不安障害に分類されていて、同じ不安障害に分類されるものの中では、パニック障害が有名だろう。

強迫性障害という病気がどんなものか簡単に説明すると、日常生活に支障をきたすほどに、不安や拘りに捉われてしまう疾患だ。

人口の1~2%の人が発症するといわれていて、その多くが10代で発症する。

私も強迫性障害であると自覚したのは高校生の頃であった。

中学生の頃から始まっていたような気もする。

 

日常生活に支障をきたすほどの不安や拘りは様々で、同じ強迫性障害という括りの中でも全く違う。

代表的な症状は、不潔恐怖、確認行為、加害恐怖、疾病恐怖、等だと思う。

特定の数字へ強いこだわりがある数唱強迫なんてものもある。

そういったものから自分の意思とは関係なく勝手に浮かんでくる不安に捉われてしまい、普通の日常生活が送れなくなってしまうのだ。

 

私は不潔恐怖に苦しんでいる。

恐らく重度で、全く治る気がしない。

死ぬまで抱えて、引きずり続けるんじゃないかと思っている。

強迫性障害さえなければ」と思うことは今まで何度となくあったし、諦めていることも、決して叶うことのない夢と思っている事も沢山ある。

他の症状については余り詳しくはないが、現に数十年という単位で苦しんでいるから不潔恐怖に関してはそれなりの知識はある。

そうはいっても、恐怖を感じる対象、程度は人それぞれで、不潔恐怖特有の似た傾向があっても個人差がとても大きいように思う。

知識といっても自分の体験から来るもので誰しもに当てはまるようなものではないだろう。

 

強迫性障害になると不安が無視できないものになる。

私がそうであるから不潔恐怖で例を挙げると、汚いものが我慢できなくなる。

多くの人が汚いものを触った後に手を洗うと思う。

「どこまで洗うか、どれだけ洗えば満足するのか?」

考えたこともなかったのではないだろうか。

何らかの拍子にトイレの床を触ってしまったときに手を洗う。

強迫性障害であるから感覚がおかしいかもしれないが、これは普通の行動だと思う。

勿論、気にせず手を洗う必要はないと考える人もいるだろう。

 

不潔恐怖の場合は手を洗うのは当たり前で、当然石鹸が必要だ。

手を洗う前に蛇口をひねったら、その蛇口も洗わなくてはならない。

何故なら、汚れた手で蛇口を捻っているのだから蛇口は汚れている。

ここまでは、綺麗好きだったり、潔癖症であったり、表現は何でもいいが普通の幅に収まってるのではないだろうか。

 

不潔恐怖の場合はこの先があり、それが厄介だ。

 

洗っているときの水しぶきが服に付着したら?

もし床に手が触れたときに袖口も床と接触していたら?

絶対にそんなことはあり得ないのに接触していたと感じてしまったら?

もっと言えば、接触した可能性があると気が付いてしまったら、手を洗うだけでは済まされなくなる。

その洗浄行為は満足できるまで繰り返される。

もしそれが自宅での出来事でなく外出先であったなら、洗浄するために帰宅することになる。

 

このような頭では馬鹿らしい、まるで不合理だとわかっている不安を強迫観念といって、それから逃れるために、あるいは納得して日常生活に戻るために行うことを強迫行為と呼ぶ。

儀式と表現したりする。

 

予期せぬ強迫観念もあるが、これをすれば強迫行為をしなくてはならないと事前にわかっていることもある。

毎日同じような場面で強迫観念が浮かんできて、生活するために同じような対処を繰り返しているのだから習慣化するのだ。

強迫性障害を発症している本人は自分がいかに不合理なことをしているか頭で理解しているし、やめたいとも思っている。

そして、大抵の場合は強迫行為に疲弊しきっている。

当然それを避けたいと考えるので、強迫行為を回避するために行動範囲がどんどん狭くなってしまい家から出られなくなってしまう場合がある。

 

強迫観念に支配され、強迫行為によって疲弊した生活を続けるうちに鬱病を併発するケースも多く、自殺してしまう事もある。

実際に私も死を意識したことは何度となくあるし、今でも消えてしまいたいと心底思っている。

死ぬ勇気がないから生きているだけで、全く未練はない。

部屋の掃除が終わっていないとか、連載中の漫画や次回作の映画が気になる程度の未練しかない。

最後の一歩はなかなか越えられない一線だと感じてはいるが、同時に紙一重だとも思う。

テレビニュースで目にする飛び降りや電車の飛び込み自殺、貧困での餓死、孤独死、街中で見かけるホームレス達は私にとってかけ離れた世界ではなく、明日は我が身と感じている。

 

まとめると、強迫性障害は意思とは関係なく頭に浮かぶ不安や拘りといった強迫観念を打ち消すための強迫行為、儀式に疲弊し日常生活に支障をきたす、もしくは、それらを回避するために真面な日常生活を送れなくなる、場合によっては死に至る病気だ。

強迫性障害を発症してしまう原因

 

性格、遺伝、過度なストレス等が関係しているのではないかと言われている。

医学的な知識は全くと言っていいくらい無いが、強迫性障害は脳の障害であり、神経伝達物質セロトニン強迫性障害と関係があるとわかってきている。

 

性格的要因としてよくあげられるものに、神経質、真面目、几帳面、完璧主義等がある。

これらの性格を有している人が必ず強迫性障害になるわけではないだろうし、全く違う性格で強迫観念に苦しむ人も存在するだろう。

それでも私自身の経験からいえば、どれも当てはまっているように思う。

幼いころから人前で食事をとることができないくらい神経質だったし、完璧主義であるからこそ、自分自身納得しないと中々作業に取り掛かれないところがあった。

真面目というのは現状と余りにかけ離れているが、悪い意味での真面目さは持っていた。

進んで貧乏くじを引きに行くような屈折したものだ。

 

私の血縁で強迫性障害を発症している人はいない。

恐らくいないと思われるが、病的な問題を抱えていると考えざるを得ない人間はいる。

祖母は近所でも評判の偏屈で、家庭をぐちゃぐちゃに壊した。

母は祖母との確執でノイローゼに陥り、しょっちゅうヒステリックに奇声を発して喚き散らしていたし、過呼吸に陥りビニール袋を口元にあてて大げさに息をしていた。

病的な問題を抱えているであろう人間と、密接にかかわりながら成長するならば、そうでない場合と比べて成長に何らかの異常をきたす可能性が大きくなるのは、明らかであるように思う。

 

強迫性障害を発症するキーとなる過度なストレスとしてあげられるものに、受験や近親者の死別、結婚や出産がある。

確かに私は思い当たるストレスがあった。

学校生活でも自分の中で大きなストレスと感じることはあった。

家庭内で起こった祖母と母の確執もそうだし、中学受験を経験している。

ただ、生活していれば誰しもストレスはあるものだし、ないほうが稀だろう。

こんな平和な時代で、また、日本という地域でなければ、もっと凄まじいストレスに直面しているはずで、その全員が強迫性障害を発症しているわけではないだろう。

昔から、あるいは内紛があって安定していない地域に住む人々は確かに強迫性障害に苦しむ人が一定数存在して、それらの人は弱者として淘汰されてきたのかもしれない。

私自身、いま生きているのは、この時代の日本であるからだと思っている。

でなければ、自殺も含め何らかの形で淘汰されているはずだ。

 

性格、遺伝、過度なストレス等は全く関係なく、先天的な脳の障害としておこるのか、もしくは、言われているような幾つもの要素によって障害が引き起こされて強迫性障害に苦しむのか、はっきりした原因は未だ解明されていない。

バーナム効果かもしれないが、強迫性障害の患者にみられる幾つもの傾向を私は殆ど持っているので、それらの要因が無関係とは思えない。

 

個人的には脳の病気であってほしいと思っている。

もしそうであれば、甘えだとか、気の持ちようだとか、精神論で片付けられずに済むからだ。

大手をふって、「私は強迫性障害だから仕方ない!」と言えるか、免罪符となるのか、というとそういうわけではないが、精神論を振りかざしてくる相手には対抗できる。

その場で反論するわけでもないし、そもそも、わざわざ自分から「私は強迫性障害なんです」なんて言わないわけだから、直接精神論で説教される機会なんてないわけだが、それでも自分で自分を多少は許すことができる。



強迫性障害 不潔恐怖について

 

強迫性障害には様々な種類がある。

中には幾つかの症状複数に苦しむ人もいる。

私の場合は不潔恐怖で誰かの体験談やインターネットの記事を読む限りかなり重度だと思う。

 

不潔恐怖にも症状はいろいろあって、恐怖を感じる対象は様々だ。

糞尿、くしゃみ、電車やバスのつり革、ドアノブ、紙幣や硬貨が代表的な例だと思う。

糞尿なんてものは誰しも汚いと感じるものだし当然だと考えるだろうが、どこまで許容できるのかというところが重要だ。

例えをあげてみようと思う。

 

トイレの後で手を洗うのか?

石鹸は必要なのか?

手を洗うだけで満足できず肘まで洗うのか?

それでも我慢できず、シャワーで全身洗わなくてはならないのか?

トイレから浴室までどうやって移動するのか?

移動したときに歩いた床はどうするのか?

着ていた服はどうするのか?

洗濯すれば許せるのか?

処分しなくてはならないのか?

 

これが不潔恐怖だ。

これらの強迫観念が意思とは関係なく頭に浮かんできて、それらの問題をクリアするために強迫行為をしなければならない。

健常者であれば数分で終わるトイレが不潔恐怖の場合は数時間かかってしまう。

これはトイレの例であって、強迫観念は日常生活のありとあらゆる場面で浮かんでくる。

 

不潔恐怖と潔癖症や綺麗好きは何が違うのかといえば日常生活に支障をきたしているかどうかであると思う。

明確な違いがあるかというと、はっきり定義づけされているとは言い難いのではないだろうか。

その違いは程度問題といえると思う。

程度問題ではあるが、それらは全く違う。

不潔恐怖である場合、強迫性障害という病気を認知していれば、自分の感覚が単なる綺麗好きか、潔癖症か、若しくは不潔恐怖の域にまで達してしまっているのかは客観的かつ冷静に判断ができると思う。

何しろ強迫性障害は自分の言動が正常といえる範囲から大きく逸脱していることを頭でははっきり理解できているからだ。

 

強迫性障害であるが故の病的な特徴をあげてみようと思う。

 

汚いと思っていないものが散らかっていても気にならない場合がある。

これは人によるとは思うが、私の場合ものが散らかっているだけでは汚いと思えないのだ。

例えば、買ったばかりの、あるいは洗濯したての衣類が山積みになっていようが、それは別にそのままでもいいのだ。

一つ一つの衣類は清潔であって、汚染されているわけではない。

汚れている事と散らかっている状態は全く別物だ。

対して、綺麗好きな人や潔癖症である場合、きっと部屋は綺麗に整えられいるのではないだろうか。

不潔恐怖はそうでない場合がある。

強迫性障害の不潔恐怖に苦しむ人の部屋はとても綺麗とはいいがたかったりする。

むしろテレビで特集されるような、汚い部屋で生活している。

勿論、決して好きでそのような状態にあるわけではない。

何故かと思うだろうが、理由は簡単で汚いものに触ることが非常に困難だからだ。

汚いものに触ると、掃除をすると、手や体を洗浄しなくてはならないという強迫観念が必ず襲ってくる。

この強迫観念を打ち消すには強迫行為を、すなわち儀式を行う必要があり、この儀式は大変な労力を必要とする。

結果、儀式を回避するために掃除を怠って部屋は汚れていく。

 

そんな状況で生活を送ってなにが不潔恐怖なんだと思うだろう。

問題をその場しのぎに解決する方法として聖域というものがある。

聖域というのは綺麗なものの置き場所である。

大切にしているものや、衣類は大抵この聖域に隔離されている。

部屋は汚いのだから、菌は寧ろ通常より多い可能性が高いのだが、無菌病棟をイメージするとわかりやすいと思う。

一つの部屋の中に私や不潔恐怖を抱える人にとっては、無菌病棟の病室のような位置づけである聖域がいくつか存在し、そこにあるものを触るのであれば事前に入浴などの儀式を行う。

人によっては部屋の一部が聖域だし、部屋全体が聖域として保たれる場合もある。

 

これも程度問題なのだが、不潔恐怖は汚れの対象が人である場合がある。

高架下でホームレスを見かけたことがある人は多いと思う。

殆どの人は彼らを汚いと思うんじゃないだろうか。

ひどく嫌悪した相手がいた場合、その人が嫌いなだけで不潔ではないと頭でわかっていたとしても恐怖の対象になる。

その嫌悪した相手が使用した物、付近にあるもの、対象の人物付近の空気等にまで恐怖の対象は広がる。

 

また、根拠のない汚染というものもある。

例えば街中に設置されているゴミ箱に何か捨てたとき、手がゴミ箱のどこかに触れたような気がした時。

実際に自分の目で全くどこも触っていないことを確認していても、指先が触れた感覚が全くなかったとしても、気がしてしまったら、それを脳が感じてしまったら、その瞬間に強迫観念が襲ってくる。

触れたかどうかは、もはや関係がなくなる。

 

実際に汚染されているのかどうかよりも、脳が汚染されたと判断したかどうかが重要なんだと思う。

汚れた部屋で生活できてしまうのも、かと思えば、汚れていないにもかかわらず強迫行為を行う必要が出てくる事態も、頭ではちぐはぐだと理解できている。

 

不潔恐怖は本人の脳が勝手な感覚で汚いと感じたものが汚いのだ。

 

 

儀式 シャワー

 

私の主な症状をあげていこうと思う。

 

まず、不潔恐怖である私にとって儀式といえば、シャワーを浴びることだ。

シャワーを浴びなければ何もできない。

ずっと横になっているしかなくなってしまう。

 

なぜ入浴ではなくシャワーなのかというと、これには訳があって、私は浴槽には浸かれないからだ。

浴槽につかるという事は、肛門に触れた水が体全体に触れるということだ。

不潔恐怖にとって肛門というのは忌み嫌うべき部分でタブーだ。

だから、もう随分と長い間、湯船につかったことがない。

中学生の頃からだから20年近くなる。

きっと物凄く気持ちいいんだと思うが、そんな、簡単な事すら満足にできないのだ。

 

強迫性障害の不潔恐怖について理解がある人は、恐らく終わることのない手洗いを真っ先に思い浮かべるのではないだろうか。

手洗いというのは考え出すと終わりがないのだ。

ここでいう終わりというのは、時間の終わりではなく境界線の事で石鹸をつけて何処まで洗うのかという話だ。

その事象、強迫観念の強さに毎によって左右されるが、「手首まで洗うのか?肘まで洗うのか?」と考え出すと切りがなくなってしまう。

「最中に水滴が跳ねて衣服に付着したら?」という所まで飛躍してしまう。

考え出すと言ったが、これは別に意識して考えているわけではなく、勝手に脳が思考して思いついてしまう。

そして、思いついてしまったら振り払うことができなくなってしまう。

それならば、最初から上から下まで全て洗ってしまえば手っ取り早くて効率的ではないかと辿り着いた結論がシャワーだった。

全然効率的でないことはわかっている。

 

私は時々、余りに疲れ切っていると横になって寝るのをためらうことがある。

恐らく、支離滅裂な意見だと思われるだろうが、不潔恐怖ならではの思考回路だと思う。

何故かというと、私にとって床というのは、不潔恐怖の対象であるからだ。

横になるということは、次に動くときに必ず強迫行為をしなくてはならない「睡眠=強迫行為」というルーティーンが出来上がってしまっているのだ。

横にならず、どうやって寝るのかというと、椅子に座って眠る。

時には車で寝たりもする。

お金に余裕があるときは、家に帰って待っている様々な儀式を回避するためにネットカフェや漫画喫茶で眠る。

私は人間であるから、横になって寝る選択が、よっぽど疲れが取れるのだが、それよりもシャワーという儀式を回避したくなってしまうのだ。

 

眠りから覚めると、一日中横になっていないでもしない限り、人間は何らかの行動をする。

通勤でも通学でも、遊びに出かけるでも、家の中で作業するでも何だって構わないが、何かするだろう。

起きてから、それらの何かをする前には必ずシャワーを浴びなくてはならない。

横になる事で自分に付着したと思っている汚れをすべて落とす必要があるからだ。

 

一度のシャワーで使う石鹸の量は異常で、上から下まで念入りに洗う。

使用する石鹸にはこだわりがあって、泡立たなくてはならない。

よくある肌に優しい石鹸とうたわれている商品は往々にして泡立たないから、何時までたっても洗った気がせず脳が納得してくれない。

儀式が終わらなくなってしまう。

ある時なんて、石鹸が無くて食器用洗剤を使ったこともある。

 

洗う順番は決まっていて、まず歯を磨く。

一日に何度シャワーを浴びようが、その度ごとに歯を磨かなくてはならない。

通常の人にとって歯磨きは、何か食べた後、夜寝る前、朝起きた後に歯の健康を守るという意図で行っているだろうが、私にとっては違って、汚れをリセットする際に行う洗浄手順の一つである。

たまたま、歯磨き粉が無いときに石鹸を使って洗ったこともある。

歯磨きというよりは、口腔内の洗浄というのが近い。

口の中を洗ったら、頭から順番に洗っていく。

耳の穴、鼻の穴も石鹸を使って洗う。

絶対に何か悪い影響を及ぼしていると考えながら、耳の穴に石鹸の泡を詰め込んでいる。

 

必ず上から下に洗っていく必要があって逆ではいけない。

理由を説明すると、まず足を洗って、それから頭を洗った場合、洗い流した汚れが洗った足を通過するからだ。

もう一度足を洗いなおさなくてはならなくなってしまう。

だから必ず上から下の順番で洗わなくてはならない。

ただ、その手順で洗ったとしても数回繰り返す事がある。

 

ガスの供給を止められてお湯が出なくなってしまったことが過去に何度もあったが、たとえ真冬であっても冷水でシャワーを浴びていた。

この感覚が理解されるかどうかわからないが、冷水というのは温水に比べて跳ね返る気がする。

浴室の床から大量の冷水が跳ね返ってくるイメージが脳内に出来上がってしまっているせいで、ガスが止まった時は、普段よりも遥かに苦痛な儀式を、何時もより入念に行っていた。

 

口を洗って、体を洗って、約40分の作業だ。

これを一日に必要な数こなさなくてはならない。

基本は朝起きて行動する前と帰宅してすぐの計2回だ。

場合によっては一日に数時間シャワーを浴びることもある。

過去一番長くシャワーを浴びたのは8時間で、満足して出てきてから私は倒れて気絶してしまった。

倒れたら汚れてしまうから、次に動くときにはシャワーを浴びなくてはならない。

 

基本40分前後で終わるこの強迫行為になぜ8時間もかかる場合があるのかというと、強迫観念の強弱が影響する。

日常の習慣と化している作業で済む場合が40分前後であって、突発的な予期していない強迫観念であったとき脳はなかなか納得してくれなくなる。

その結果、時間が伸びるのだ。

そういう場合は非常に神経質になっていて、シャワーを浴びたからといって安心はできない。

浴室から出るときに肘が扉に当たった気がしたら、気がしただけで初めからやり直すはめになる。

綿密に決めた長い手順の何処かで少しでもミスをしてしまったら、ミスをしたと感じてしまったら口の洗浄作業に戻る。

 

本来なら疲れた体を癒す目的もあるはずの入浴が、私にとっては手順に沿って洗浄するだけの酷く疲れる作業になってしまっている。



儀式 洗濯

 

強迫性障害の私にとって洗濯は非常に厄介な仕事だ。

 

まず、不潔恐怖だと大量の洗濯物がでる。

基本的に一回着たら汚れると認識するからだ。

それが実際に汚れたかどうか、どのくらいの時間着ていたかは関係ない。

特に下半身の衣類は一度着用したら必ず洗濯しなくてはならない。

何故かというと汚いと認識している床から近い位置にあるからだ。

そんな状態はなかなかありえないのだが、もし床を綺麗だと考えていて、何らかの要素によって汚染されたと感じることがなければ、洗濯をする必要はない。

つまり、上半身の服であれば一度使用しても洗濯しなくてはならないと感じない場合もある。

スーツを着なくてはいけない職場でなくて良かったと思う。

実際にスーツなどの気軽に洗濯できないような衣類を日常的に着用しなければならない状況に陥ったら、何とか強迫観念を納得させる手順を構築して実行するのだが、それはとても大変なことだ。

洗えないなら、洗う必要がない手順を考え出す必要がある。

就職活動の最中には、その手順を踏んでいた。

昔、学生時代にどうしても洗わなくては脳が許してくれない状況に追い込まれて、学生服のブレザーを洗濯したことがあったが、悲惨な物だった。

ごわごわに縮んでしまいとても着られる状態ではなくなってしまった。

不潔恐怖の私にとって、服というのは洗濯できるかどうかが最も重要な要素だ。

素材だけではなく、その衣類の大きさも大切で、洗濯機に投入しやすいサイズである必要もある。

更に言うと、できるだけ乾燥が早そうな素材であることも重要だ。

 

私は洗濯物を上半身、下半身、靴下とパンツの3種類にわけている。

それぞれ分けて洗濯機に入れてスイッチを押すのだから、それだけで通常の3倍時間がかかる。

また、どれだけ洗濯の量が少なくても最大時間を選択するから実際にはもっと時間がかかっているはずだ。

これを何とか短縮するために、部屋では浴衣を着ている時代があった。

お祭りに着ていくような華やかなものではなく、旅館だとかにおいてある様な物を想像してほしい。

女性でいうとワンピースといったところだろうか。

これは上から下まで一つの服だから洗濯が楽なのだ。

 

洗濯の一番厄介な点は、汚れた衣類を洗浄してリセットするというところだ。

 

どういう事かというと、洗濯前の衣類は基本的に綺麗ではない。

洗濯機に汚れた衣類を入れるには触らなければならない。

それを触るということは自分も汚れるということだ。

洗濯が終わったらリセットされて洗濯物は綺麗な状態と認識される。

汚れた衣類を触って汚れた状態の自分が綺麗な洗濯物を取り出したら、その時点で洗濯ものはまた汚れてしまう。

つまり、自分もリセットして綺麗な状態にしなくては洗濯物を取り出すことができないのだ。

儀式をしなければならない。

シャワーを浴びなくてはならない。

 

3種類に分けて洗濯するということは、3回汚い物に触るので、儀式も当然3回ある。

そのため、酷い時は洗濯をしているだけで1日が終わってしまう。

 

洗濯は日常的に行うため、確立された手順がある。

 

まず、洗濯は全裸で行う。

何故全裸になるのかというと、服を着ていてはその着ていた服も汚れてしまう。

これでは、洗濯をするたびに洗濯ものが増えてしまう。

もう一つ重要な理由がある。

肌の感覚が必要だから全裸になる必要があるのだ。

洗濯機に洗濯物を入れる作業に神経が必要で、洗濯槽の底にそれを置くまで、他の何処にも触れてはいけないのだ。

この時、衣類を着ていては、触れたことに気が付かないかもしれないし、衣服の厚みぶん触れるリスクも高くなる。

そもそも、何故触れてはいけないのかと言うと、もし触れてしまえば、その場所が汚れてしまうからだ。

そして汚れてしまったら、洗濯が終わって取り出す時に、取り出した瞬間に洗濯ものは汚染されてしまう。

もしそうなってしまったら、最初から洗濯をやり直す必要があるし、シャワーを浴びるという儀式も再度行わなくてはならない。

それを防ぐために、たっぷりと時間をかけ、少量ずつ細心の注意をはらって洗濯物をセットし、通常の何倍もの洗剤を入れてボタンを押す。

使う洗剤の量が多すぎるものだから、私の洗濯機は洗濯槽が真っ白に変わっている。

ボタンを押すところでまた問題が発生する。

「どうやってボタンを押すのか?」ということだ。

洗濯ものをセットした汚い状態の手で洗濯機を操作すると、洗濯機が汚れてしまい洗濯が終わって洗濯ものを取り出したときに汚染されてしまう。

だから、ボタンは汚い状態で触れない。

ゴム手袋やビニール袋を予め準備しておいて、洗濯ものをセットした後、それを装着し洗濯機を操作する方法が一つ。

それは、洗濯を行うたびにゴミが増えていくし、何より物が必要なので多用はできない。

だから多くの場合はシャワーを浴びてから洗濯機を操作する。

これだけの手順を踏まなくてはならないので時間は相当かかってしまう。

洗濯機に洗濯ものをセットする時間、シャワーを浴びる時間、洗濯が終わるのを待つ時間、合計すると一回の洗濯に数時間もかかる。

 

そんな手間と労力のかかる作業を、3種類分、儀式込みで行う必要があるのだから、常に洗濯に追われた状態にあると言っても過言ではない。

だから追いつかない時も多々あって、洗濯が終わったばかりの服を濡れたまま着るなんてことも日常茶飯事で、たとえ冬でもあっても関係ない。

 

シャワーを浴びる儀式と同じように、疲れきっている状態が続いていると、どうしても大変な洗濯をしたくなくなる。

ここで回避が出てくる。

洗濯をしたくないから、服を消費したくない。

だから服を着ない。

そして、出かけることができなくなって、部屋に引きこもってしまう。

そんな状況に陥ることが過去何度もあった。

 

儀式 着替え

 

不潔恐怖を知らない人からすれば「着替えに何の儀式があるのか?」と考えるだろう。

私にとっての服を着るという作業は完全に儀式と化していて、手順が出来上がっている。

 

服を着るのは、儀式の後だ。

シャワーを浴びると、足以外は汚れがリセットされた状態になる。

足も洗うのだけど、洗っても歩かなければ移動できない。

床は汚れていると脳が認識しているから足を汚さなければ移動できない。

私はスリッパを使用しているから、床を裸足で歩くわけではないが、それでも清潔と考えられる状態は保てない。

 

服を着るには、まず靴下をはいて汚れた足を覆い隠してしまう必要がある。

また、汚れた部分をより多く覆い隠せるため、使用する靴下は出来るだけ長いものがいい。

靴下から着用する理由は、汚れた足でいきなりパンツを履いてしまうと、パンツが汚染されてしまうからだ。

靴下は慎重にはかなければならない。

服を着る一連の流れの中で一番大変なのがここだ。

靴下をはく際に、足がまだ濡れていて、万が一水滴が跳ねたりしたら、儀式からやり直さなくてはならなくなる。だから靴下を履くのは足が乾いてからだ。

足が乾くという表現をしたのには理由がある。

普通の人ならタオルで拭けばいいと考えるだろうが、拭けないのだ。

足は汚いからタオルを使うと汚染されてしまう。

儀式のたびにタオルで足を拭いていては洗濯ものがどんどんたまってしまう。

そのため、たとえ冬であっても、自然乾燥するのを待つしか手段がない。

出かけるためにシャワーを浴びて、自然乾燥を待ってから衣類を着る。

 

足が乾いたら、靴下をはくのだが、履いた足をそのまま床におろしてはいけない。

床に接触したら汚れたと認識されてしまう。

靴下が汚れた状態でパンツをはいたらパンツが汚染されてしまい、靴下から着用した意味がなくなってしまう。

床に足をおろしてしまったら、靴下は洗濯しなおしだし、下手をしたらシャワーから浴びなおさなくてはならない。

ではどうしたらいいのかというと、履いた足は、そのまま椅子にのせる。

それから、もう片方の靴下をはく。

足が何処にも触れないように細心の注意をはらいつつ、バランスをとりながら椅子の上で靴下を履く。

両足の靴下を履くことができたら最難関は突破している。

しかし、時々バランスを崩して倒れてしまう事があって、そうなったらシャワーからやり直す。

運が悪いと椅子も倒れてしまう。

これは最悪の事態で、浴室で洗えるような椅子であれば洗浄しなくてはならなくなる。

そうでなければ買いなおす。

 

靴下が終わったら、パンツをはき、それからズボンをはく。

次に重要なのは裾の処理だ。

ズボンの裾を何とかする理由は裾が床に接触する危険を排除するためだ。

裾が膝から少し下になるくらいまで引っ張り上げた状態をキープして、「靴下を履いた後専用」の浴室用スリッパを履く。

もう一つ方法があって、裾を何重にも折り曲げる。

こちらの方法がより安全であるから、時間に全く余裕が無いときでない限りこの方法を使う。

また、浴室用のスリッパを使うところが非常に重要だ。

なぜ浴室用かというと普通のスリッパでは「歩いた風圧で付着する気がする汚れ」が気になるからだ。

裾を引っ張り上げる、若しくは何重にも折り曲げるのは靴を履き終えるまで続く。

私は、外のアスファルトや、土の上よりも自分の部屋の床が許せない。

 

そうやって、決められた手順を踏まないと服を着ることができないので、出かける前には必ずこの作業がある。

出かける前には必ずこの作業があるということは、1日に何度か出かける場合、その回数だけ行う必要があるということだ。

当然その度に、ズボンと下着は洗濯するし、儀式もある。

「出かけて帰宅してから、その綺麗な状態をキープすることはできないのか?」という疑問があるだろうと思う。

出来ないことはないが、それは非常に大変なので、よっぽど短い時間でない限りキープはしない。

そもそも、帰宅してから行う必要が出てくる一連の儀式を思うと、一日のうちに何度も外出を繰り返すのは好ましくない。

部屋は汚れているし、床は汚染されているのだから、何処にも触れないように神経をすり減らして待機するのは、非常に疲れてしまうのだ。

 

大変な洗濯があって、シャワーを浴びた後、自然乾燥を待ち、決められた手順通りに服を着ないと私は出かけることすらできない。

シャワーと着替えだけで短く見積もっても1時間はかかる。

毎日の通勤時間、通学時間に1時間プラスして考えてほしい。

凄く大変そうだとは思えないだろうか。

たとえ徒歩5分のコンビニに行くにしても、短く見積もって1時間はかかる。

ちょっとした用事で出かけて、家に帰ってきたら次に出かける時にはシャワーからやり直しだ。

不潔恐怖の私にとって服を着る行為だけでも、これだけ大変な事なのだ。